東邦・製品の歴史

東邦・製品の歴史

アーカイブとしまして、社史から東邦電機工業の歴史をご紹介いたします。
会社の誕生、製品の開発秘話など、少しでもご興味をもっていただければ幸いです。

・第一章 誕生から目黒時代

・第二章 相模への移転そして激動時代

・第三章 会社の変革さらなる躍進時代

・第四章 深化と進化新たな価値の創出時代

上記、4部構成で随時、更新していく予定となっております。

第一章 誕生から目黒時代

1.東邦電機工業株式会社創立(昭和19年3月)

東邦電機工業株式会社は戦時経済の立て直しのため、1944年(昭和19年)3月、東京の目黒に設立。当時の政府により交付された軍需会社第一次指定令書に基づき、150社が指定され、その中の下請け会社として変圧器の巻線部品の製造を手がけていた。

2.新潟県見附町への疎開(昭和20年5月)

空襲による会社延焼のため新潟県南蒲原群見附町に疎開。同年8月15日、終戦を迎えることとなる。

3.下目黒元競馬場での操業開始(昭和20年12月)

終戦により疎開先である新潟県より東京に戻り、東京都目黒区下目黒3丁目526番にて創業を再開する。当時の社屋は、現在の東京都府中市にある東京競馬場に移転する前に存在した目黒競馬場の跡地近くにあった酒店の店舗を借りたものだった。

4.会社の様子(昭和20年~21年)

店舗の土間を巻線機を使った組立職場として、奥の六畳間と四畳半は事務所として使用されていた。 旋盤や剪断機は倉庫に置かれ、機械加工はここで行われ、倉庫奥には乾燥室があり、塗装や組み立てに利用されていた。 当時は、戦火で焼けてしまったモーターや柱上トランスの修理、ラジオ用のオート・トランス(変圧器)の製作の他、通信回線の修理用に使用する銅スリーブの加工も行っていた。

5.新事業への展開(昭和21年~22年)

信号保安用品随意契約業者の資格を得て、積極的な営業活動により、東京鉄道局電気部電気修繕場から線状変圧器(トランス)の巻線修理や東京電気工事事務所から接続箱の製作、踏釦(足踏み式のボタンスイッチ)や銅スリーブ等の受注を開始する。

6.悪戦苦闘の毎日(昭和21年~22年)

戦災の爪痕も残り食料もまだ配給制だった時代のため、電気材料の入手は困難を極める状況が続く。 また、世間では給与の遅配や欠配、現物支給が当たり前の時代に滞りなく給与支払いを行っていたが、資金繰りは決して楽ではなかった。 昭和22年頃、国鉄より信号用錠前S-1とS-2の大量受注に成功し、協力会社とともに鋳物を製作し、無事納品を行う。

7.新分野への挑戦(昭和22年~23年)

通信専攻の技術者の入社により新しい分野への製品開発が始まる。 鉄道電話回線の利便性を大きく向上させる集団電話回線という自動交換機や通話の終了を自動で伝える終話信号自動送出装置が相次いで開発され、会社のイメージアップと技術力の向上に繋がった。 また、当時は珍しい進駐軍払い下げの中型ジープが導入され、資材搬送や製品の出荷に大活躍した。

8.下目黒日の出学園隣への移転(昭和23年~24年)

昭和23年、会社転移のため目黒区下目黒1丁目41番地(現在の目黒本社)に敷地942平米(285坪)の土地を購入。 翌24年、既に購入していた立川の旧陸軍木造倉庫を解体・移転して新社屋の建設が行われた。

9.技術向上そしてさらなる発展(昭和25年)

上野と品川間に設置されていた『こんどの電車は○○○を出ました』と表示される多重一括装置を開発。 開発当初は、スイッチの接触不良や接点間のショート等の問題点もあったが、順次改良・改善が行われ、技術・品質ともに向上した製品として問題点は一気に解決された。

10.三田に営業所開設(昭和26年)

昭和26年9月、会社から近い目黒区三田100番地に324平米(98坪)の土地を購入し、営業所を新設。 出発合図機、定電圧整流器、小型安全耐圧試験器などの、鉄道の安全に関わる機器を数多く開発、製造する。

11.信号分野、通信分野の成長(昭和27年~28年)

信号分野では信号用小型位相計、信号用配電盤、踏切接近電響器、入換合図器、信号機器試験盤などを次々に製作。また、通信分野では薬局表示装置、出退表示器、ナースコール、共電式交換器紐度数計などを手がけて成長を続けた。

12.初の電子機器量産(昭和29年)

当時トークバックと呼ばれていた業務連絡用インターホンを現場の要望を受け携帯用として製造し大好評を博す。 しかし、当時の国鉄では信号分野と通信分野が別組織であり、信号用機器として納品するため可搬形信号回線切替用送聴話器という名称とした。 この可搬形信号回線切替用送聴話器は大変評判がよく、東邦電機工業として量産を行った初の電子機器となった。

13.新聞に紹介された製品(昭和31年)

昭和31年12月19日付けの朝日新聞と毎日新聞に東邦電機工業で開発された光電制御式スピード記録装置が紹介された。 スキー競技で使用した場合、スタート台の門扉が開くと同時に計測が開始され、ゴール地点に設置した光電管の光を遮るとカウントが停止し、スタートからゴールまで要した正確な時間が1/1000秒の精度で計測可能であった。

14.トランジスタの導入(昭和33年)

真空管に代わる部品としてトランジスタが注目され、研究、実験のために2個のトランジスタが購入される。 その当時、トランジスタ1個の価格は大卒者の初任給以上の高額なものであった。

15.踏切制御子の誕生(昭和33年)

列車を検知する機器として、電子式のトレッドルの開発が行われる。完成した電子式トレッドルは新宿駅でのテストで見事に列車の検知に成功。 これが東邦電機工業発展の基となる踏切制御子の産声を上げた瞬間であった。

16.踏切制御子の採用決定(昭和35年)

電子式トレッドルの開発から1年、ゲルマニウム・トランジスタで動作する装置が完成。 町田付近での長期に渉る現場試験を経て、国鉄でOSトレッドルという名称で正式に採用が決定する。

17.工場移転計画(昭和36年)

OSトレッドルは踏切制御子という新名称にかわり、社内に専門の部署も設立される。 また、踏切制御子の大量生産に対応するため、工場用地の誘致があった神奈川県高座群座間町相模台南広野1343番地に4950平米(1497坪)の土地を購入し、工場の移転計画が進められる。



>>「第二章 相模への移転そして激動時代」に続く